資料館・ギャラリー


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志田焼について


 江戸中期以降の佐賀県の窯業は有田を中心とした窯業圏と藤津地区(武雄南部を含む)を中心とした、二大窯業圏に分ける事が出来る。
塩田町には、江戸期の窯跡が8ヶ所、明治から昭和の窯跡が36ヶ所、計44ヶ所残されており、この地域は藤津窯業圏の中でも吉田皿山と共に中核的存在であったことを示していた。
志田焼とは、鍋島本藩領の志田東山、鍋島支藩である蓮池領の志田西山の窯場で焼かれた磁気製品を指す。
初期には、土物製品、京焼風陶器等、幅広い製品が見られる。
本格的に磁気が生産されるのは、西山では18世紀中頃、東山では、1800年頃からである。文化年間の頃には志田の窯場が2倍から3倍の規模に膨張しピークを迎える。それまで1登り窯だけの最小限の窯場であったものが、2登り窯となり、幕末までにさらに増設されており計5登り窯となって、志田の環境は大きく変貌を遂げる事となる。天草陶石による、大中小の皿が主力製品として生産されるようになり、他の製品は極端に少なくなっている。
幕末最盛期、登り窯の推定部屋数は88室前後で、一つの窯の焼成は年に5回程で大量の志田染付皿が生産された事になる。皿類に限れば、当時の生産量は鍋島藩内でも過半数を超えていたと思われる。
明治初期ころの記録に「志田は皿のみ作り、敢えて他の物を製せず」といった記述がある。
江戸期から昭和期頃までの、使用されていた焼物も多くあり、当時の生活ぶりを物語っています。    

 

志田焼資料館


志田焼とは、肥前鍋島藩、本藩領の志田東山と支藩蓮池領の志田西山で焼かれていました。初期は陶器のみ、18世紀半ばからは天草陶石による磁器の焼成が始まりました。全盛期は文化年間以降で大中小の染付皿が大量に生産されています。皿製品以外は極端に少ないのが特徴です。幕末期の鍋島藩全皿山で志田染付皿の占める割合は過半数にも及び、佐賀県窯業史上重要な役割を果たしていました 。

志田焼資料館

江戸初期志田焼

昭和初期志田焼


ギャラリー陶芸


人間国宝や日展作家の代表的な作品を展示・販売しています。 (価格はご相談下さい。)
青木龍山・奥川忠右エ門・小野珀子・草場正人・田中一晃・辻一堂・辻修・中島均・中村清六・樋渡陶六・前田泰明・松尾重利・松尾潤・溝上秀次など。

ギャラリー陶芸

青木龍山 「豊和」

田中一晃 「湛ふ」


東海道五十三次大皿展示室


有名な広重の浮世絵「東海道五十三次」を写した額皿です。日本橋から京の三条大橋まで欠けることなく揃っています。
作者は有田の陶芸家、辻一堂(本名:貞男 明治44年~昭和58年)です。
45センチの大皿55枚は漆蒔(うるしまき)の技法を使い見る者に感動を与えます 。

東海道五十三次

大皿展示室

「東海道五十三次 庄野宿」

辻一堂

「東海道五十三次 鳴海宿」

辻一堂